世界農業遺産「清流長良川の鮎」ゆかりの地を泳ぐ鯉のぼり。水がつなぐ岐阜の伝統工芸とは

 子どものころは川で泳いだり、水辺の生き物を観察したり。岐阜県で生まれ育ったわたしにとって、川はいつだって楽しい遊び場であり学び場でした。その川というのが日本三大清流のひとつとして名高い「長良川」です。

美しい川とともに栄えた岐阜の伝統工芸 

わたしが大人になったいまも変わらず流れる長良川。ふと、自分にとって大切な思い出の場所のひとつである長良川のことをもっと知りたくなった折に、長良川流域の観光やまちづくりに取り組む「NPO法人ORGAN」の河口郁美さんを通して岐阜の伝統工芸を巡るツアーのお話をいただきました。

川と伝統工芸。一見関連性がなさそうですが、なんと長良川流域には多くの伝統工芸があり、実は歴史的に見てもとても深いつながりがあるのだそうです。これは紐解いていくと非常におもしろそう……!

しかも今回のツアーというのが「鯉のぼり作り」を巡るものだというので、こうなったらもう興味津々。満を持して参加させていただくことになりました。

世界農業遺産に「清流長良川の鮎」が認定

岐阜市の清流長良川

ところで、長良川は世界に誇る川だということが証明された出来事をご存知でしょうか。2015年、世界農業遺産(GIAHS:ジアス)に「清流長良川の鮎」が認定されたのです。

といっても「世界農業遺産ってなに?」と思われたかもしれませんね。これは食糧の安定確保を目指す国際組織である「国際連合食糧農業機関(FAO)」によって創設されたプロジェクトのひとつ。

世界において重要かつ伝統的な農林水産業を営む地域が認定されており、それとともに育まれた文化や景観、生物多様性などが一体となったシステム全体を保全し継承していくことを目指しています。

清流長良川

長良川流域で多くの人々が暮らしを営む中で、鮎が生息できているのは水が美しく保たれている証。なぜなら鮎は澄んだ川でしか生きられないからです。

鮎を通じて見えてくるのは、自然環境や生態系を守り育てながら人が生活し、さらには豊かな資源や文化として成り立っていくという、すべてが連環する「里川」のシステム。この通称「長良川システム」こそが世界に認められ、「清流長良川の鮎」として世界農業遺産に登録されたというわけです。

と、前置きが長くなってしまいましたが、今回はこの大きな循環型システムの中のひとつである文化に着目し、川とものづくりがどのようにかかわってきたのかを探ります。長良川流域で栄えた岐阜の伝統工芸、そしてどのような鯉のぼりが生み出されているのか、その現場を見学しに行ってきました。

いざ、「水の町」へ

郡上八幡の夕暮れ

まず訪れたのは、長良川の上流に位置する郡上市八幡町。奥美濃の山々から流れ出た水が出合い、長良川の支流となって豊かに流れる吉田川や乙姫川はまるで町の守り神のよう。

郡上八幡城のふもとに広がる風情ある城下町には、川の水を生かした水路が張り巡らされています。いたるところで水のせせらぎの音が聞こえ、郡上八幡の「水の町」たる所以がわかります。

郡上八幡が誇る「渡辺染物店」の藍染と鯉のぼり

渡辺染物店

町歩きをしていると、美しい藍染ののれんがかかった一軒のお店にたどり着きました。こちらが今回最初の目的地、ここ郡上八幡で江戸時代の少し前、天正年間に創業した「渡辺染物店」です。15代目の店主・渡辺一吉さんがわたしたちを迎えてくれました。

渡辺染物店は昔ながらの染め物を続ける「郡上本染」の店で、天然の藍を原料とする日本伝統の染色技法「正藍染」であることが特徴です。郡上八幡の冬の風物詩のひとつ、「寒ざらし」で有名なあの鯉のぼりたちはここで作られているんですよ。郡上本染の染色方法は、藍染と鯉のぼりの染色(カチン染め)の2種類に分けられます。

渡辺染物店の藍甕

店内には土中に埋められた藍甕(あいがめ)がずらり。なんと江戸時代から使い続けているもので、この中には天然の藍草を発酵させた蒅(すくも)に、灰汁や石灰などを混ぜ、醸成させて出来た染め液が入っています。これらはとても繊細で、気温や湿度に気を配りながら毎日撹拌します。

この液に生地を浸し染め、店の前に流れる水路ですすぎます。染め〜洗いの工程を繰り返すこと十数回。これが郡上本染ならではの藍染であり、深く濃い藍色が生まれる理由です。

渡辺染物店店主の渡辺一吉さん

一方で鯉のぼりを染め上げるカチン染めという技法は、大豆の絞り汁と顔料を用いるもの。染めの前には、まず生地の下絵の上に餅糊を置く「筒描」という作業を行います。色を入れたくない部分に糊で壁を作っておくようなイメージです。

鯉のぼりの制作風景

これは筒描が終わり、刷毛を使いながら生地に色を入れていく様子です。糊を置いた部分だけが染まらず、ちょうど鯉の目や鱗の部分が最後に柄として残るようです。

鯉のぼりの制作風景

目は仕上げに。目が入ると、命が吹き込まれたように感じるから不思議ですね。

鯉のぼりの制作風景

色を全て入れ2日程度乾かしたら、いよいよ洗いの作業へ。糊を川で洗い落とすこの作業こそが「寒ざらし」です。すると落ちた糊の部分だけもとの生地の色が現れ、絵柄が生まれます。冷たい清流で洗うことで生地が締まり、鮮やかな色彩になるのだそうです。

残念ながら今年はコロナの影響で寒ざらしの様子は見学できませんでしたが、清流に泳ぐ鯉のぼりの優美さをひとめ見るため、全国や海外から例年多くの見物客が集まります。来年こそは見られますように。

渡辺染物店の鯉のぼりと藍染

「水の美しさは発色の美しさに大きくかかわります」と渡辺さん。というのも藍は酸化することによって発色するという特性があるからだそう。するとお店近くの橋まで案内してくださいました。

郡上八幡の山と川

「奥に見える山からやってきた水が今こうやって川となっているんですよ。美しい滝も水源です。それが水路を通ってわたしたちが使う水になる。この水は冷たくて水中の酸素量が多いので、生地を洗うときに、生地の奥まで水中の酸素と反応させることができるんです。だから発色がよくなるのです」

またとても印象的だったのは「水を大切に使いたい」という渡辺さんの言葉。町中に張り巡らされた用水路は、町の人々に普段の生活に使われると共に、渡辺染物店では生業として今でも利用されています。

郡上八幡の水路

「水路をきれいに保ちながら使うことは、水を大切に思い、そして環境を維持することに繋がります。流れている水の様子がいつも見えるからこそ、大事にしたいと思うんです」

昔から水の恵みを生かす文化が根付く郡上八幡。終始穏やかな語り口の渡辺さんでしたが、この自然豊かな土地で、ものづくりを行うことへの責任や敬意といったものがひしひしと感じられました。

岐阜城のおひざもと、岐阜市へ

金華山にそびえる岐阜城と長良川

続いては岐阜市にやってきました。金華山のてっぺんにそびえる岐阜城がまちを見守り、ふもとにはゆったりと流れる長良川。ここではいったいどんな鯉のぼりに出合えるのでしょうか。

空を彩る鯉のぼり。明治から続く旗屋「吉田旗店」

吉田旗店の染め物

2月の某日、快晴の日に向かったのは忠節橋のすぐ近く。青空にはためく美しい旗が目印の「株式会社吉田旗店」に到着しました。

吉田旗店は大相撲の巡業や神社で使われるのぼりをはじめ、大漁旗やのれん、手ぬぐいなどといった大小さまざまな染物を手がけている老舗の旗屋です。今はまさに鯉のぼりの制作シーズン真っ只中! 笑顔が素敵な吉田敦子さんの案内のもと、工房を見学させていただきました。

吉田旗店の鯉のぼりの制作風景

工房に入るやいなや目に飛び込んできた鯉のぼりの制作風景。どんなものができるのかは後からのお楽しみです。

吉田旗店の特徴は、「美濃筒引き本染め」と呼ばれる技法が用いられていること。まず糊を筒に入れ、絞り出して文字や柄を縁取っていく「筒引き」を行い、糊が乾いたら染料を刷毛に取って生地を染める「引き染め」をします。渡辺染物店で見た染物同様、糊置きした部分が染まらず、洗い流すと生地の白色が残ります。

吉田旗店社長の吉田聖生さん

美濃筒引き本染めに使う道具

工房内では、6代目の社長・吉田聖生さんがまさに筒引きを行っていました。その手さばきはまさに職人技。スラスラと糊が引かれるさまはずっと見ていられるほど。

「この糊は天然素材で水に溶けやすく、昔から変わらない技法で作っています。夏場は暑さで腐ってしまうこともあるので、温度管理も仕事のひとつです。使う道具たちもどれも貴重なので、直しながら大切に使っていますよ」

吉田旗店の鯉のぼりの制作風景

筒引きのあと、糊が乾いたらいよいよ染めに入ります。子どもの日に向けて着々と職人さんたちが鯉のぼりを染め上げています。色鮮やかでとても美しく、完成が楽しみですね。

洗いの工程

そして最後にたっぷりの水ですすいで糊を落としていきます。たっぷり水を使ったほうが環境にもやさしいのだそう。

鯉のぼりの天日干し

そして工房の外で干し、しっかり乾燥させます。この光景は見ていてほんとうに気持ちいい。通行人も思わず立ち止まって眺めてしまうほどです。

吉田旗店の鯉のぼり

吉田旗店の鯉のぼり

最後に裁断、縫製を行い、たくさんの工程を経て完成した吉田旗店の鯉のぼりがこちら。カラフルで元気いっぱい! 子どもの逞しい生命力や自由さを感じます。名入れもできるので、贈り物にもぴったりですね。

工房を見学し終えたあとは、「現代の名工」に選ばれた会長の吉田稔さんにもお会いすることができました。吉田さんは何を隠そう、唯一手書きで相撲のぼりの四股名を入れられるベテラン職人。相撲のぼりの6割が吉田旗店で作られていることもあり、全国から相撲ファンたちが訪ねてくることもしばしば。

「現代の名工」に選ばれた吉田旗店会長の吉田稔さん

その職人技にわたしたちもお目にかかれました! 定規を用いながらサッサッと筆を入れていきます。文字の大きさや形にどんな意味があるのか教えていただきながら、あっという間に美しいバランスで力強い力士の四股名が描かれました。これは機械には為せぬ巧の技。圧巻です。

染物屋の近くにはきれいな水が必要不可欠。長良川のすぐ側でその恩恵を受けながら代々続く吉田旗店ですが、天然素材の材料を用いたり、道具を直しながら大切に使ったりと、環境に配慮しながらものづくりを行う姿勢が随所から感じられました。

吉田旗店の職人の皆さま

最後に職人の皆さんでパチリ。手しごとから生まれた美しい染物と、皆さんの笑顔が青空に映えます。

愛らしい和紙の鯉のぼりは「小原屋」にあり

岐阜市の小原屋

伝統工芸を巡る旅もいよいよ終盤。最後にやってきたのは、岐阜・川原町の趣ある街並みからほど近い場所に工房兼お店を構える「小原屋」です。

小原屋ののぼり鯉

戸を開けるとそこにはゆらゆら宙を泳ぐ鯉のぼりたちがお出迎え。これが小原屋の作る岐阜県郷土工芸品「のぼり鯉」です。「なんて可愛らしいの!」と、伝統工芸品に対しての印象がいい意味で覆された瞬間でもありました。家の中にも飾りやすいコンパクトな大きさが愛らしさをいっそう引き立てます。

小原屋13代目の店主河合俊和さん

素敵な小上がり座敷でわたしたちを迎えてくれたのが、13代目の河合俊和さん。のぼり鯉を作る唯一の人物でありながら建築家でもあるという異色の職人です。

鯉のぼりといえば布製が主流ですが、こちらののぼり鯉の最大の特徴は和紙でできていること。その和紙というのが、同じく岐阜の伝統工芸品である、楮100%の美濃手漉き和紙です。紙漉きの作業工程には大量の水が必要とされることで知られており、ここでも長良川の恩恵によって栄えた文化を垣間見ることができました。

小原屋ののぼり鯉

小原屋の創業は慶長年間と古く、もとは油紙(油をひいた防水紙)を製造していました。かつては火縄銃を包むものとして重宝されており、また華道の花を包む紙や花合羽として庶民にも愛されていたのだそうです。

小原屋の油紙

「昔は長良川の川原に油紙を干していたんですよ。玉石川原だったので、干すにはぴったりで。でも今では滅多にその玉石も見られなくなってしまいました」

この影響と需要の減少もあり、次第に油紙の生産は減り、現在はのぼり鯉のみを作る小原屋。岐阜に生まれ、子どものころは川が遊び場だった河合さんにとって、これは環境の変化を肌で感じた出来事のひとつだったのかもしれません。岐阜に限らず、自然環境と工芸は密接に結びついているのです。

小原屋ののぼり鯉の制作風景

さて実際にのぼり鯉の制作現場を見学させていただきました。美濃和紙を揉みこんで柔らかくなった生地は、布のような立体感が生まれます。このしわがまたいい塩梅に色のぼかしを表現してくれて、躍動感のある鯉へと命が吹き込まれます。

「美濃和紙という文化なくして、こののぼり鯉は生まれませんでした。岐阜のものづくりはこうやって線のようにつながっているのです」

のぼり鯉の制作風景

また古来より鯉のぼりの色は中国の自然哲学である「五行説」にもとづいており、こののぼり鯉も例外ではありません。自然界に存在する全てのものが影響し、循環し合う理のように、青、赤、黃、白、黒色にそれぞれ意味を込め、子どもの健やかな成長と立身出世を願います。手描きだからこそ、一つひとつに河合さんの思いも宿るのかもしれません。

小原屋ののぼり鯉

「人間は自然と共存しているように考えてしまいがちですが、忘れてはならないのがわたしたちは自然の一部であり、その恩恵を”いただいている側”であるということです」

こう語る河合さんの思いに触れて、岐阜の自然と伝統から必然的に生まれた、先人の知恵が息づく玩具であるのぼり鯉にすっかり魅せられてしまいました。

長良川流域の手しごとがつながって生まれた岐阜和傘も

岐阜和傘

このツアーを終え、今回アテンドしてくださったNPO法人ORGANの河口さんが最後にあるものを見せてくれました。それが同じくこの長良川流域で生まれた伝統工芸品「岐阜和傘」。

河口さんは、美濃手漉き和紙でできている和傘に岐阜の染めの技術を生かせられないかと、渡辺染物店の渡辺さんと吉田旗店の吉田さんにそれぞれ直談判! おふたりとも今まで和紙を染めた経験がない中で、河口さんの熱い依頼を受けてチャレンジし、世にも美しい和傘が誕生しました。

渡辺染物店の技術とコラボして生まれた岐阜和傘

吉田旗店の技術とコラボして生まれた岐阜和傘

上:渡辺染物店の藍染を生かすと、銀河を彷彿とさせる幻想的な模様が現れました。
下:吉田旗店ならではの鮮やかな色合い。空の色のようなグラデーションにうっとり。

和紙、染め、和傘という長良川流域の手しごとがリレーして1本の和傘へ。これこそが点ではなく線としてつながっているものづくりです。河口さんのとびきりの笑顔が、この土地ならではの豊かさを物語っていました。

清流長良川とともに生きる

郡上八幡の夕暮れ

伝統と手しごとによって生まれた多様な鯉のぼりとの出合いを通し、「岐阜のものづくりってやっぱり素敵だな」とあらためて感じました。そして何より印象的だったのは、作るものや場所が違えど、作り手のみなさんは身近にある自然を大切に敬いながらものづくりを行っているということ。だからこそ伝統は続いているのです。

今回伺った3軒だけでなく、長良川流域には前述の美濃和紙や岐阜和傘をはじめ、岐阜提灯、関の刃物など豊かな伝統工芸品に溢れています。

また岐阜では、長良川上中流域の農林水産物をはじめとするさまざまな関連商品が「清流長良川の恵みの逸品」として販売されています。「清流長良川の鮎」の世界農業遺産への認定を通し、「長良川システム」を未来につなぐことを目指しています。

長良川を知ることで見えてきたさまざまなつながり。これからもこの美しい清流を保ち、誇らしい文化を継承していくためには、見て、知り、伝えることが大切なのかもしれません。今回わたしも故郷・岐阜の新たな一面を実際に知ることができ、さらに岐阜愛が深まりました。取材に協力していただいたみなさま、この度はありがとうございました!

 

取材協力:
郡上本染 渡辺染物店
株式会社吉田旗店
小原屋

写真提供:NPO法人ORGAN