すこし不思議でどこか懐かしい、活版印刷屋「九ポ堂」の架空世界
本と活字をこよなく愛する祖父のアトリエに遺されていたのは、活版印刷機と無数の“9ポイントの活字”たちでした。その機材と屋号を受け継いだ「九ポ堂」の酒井草平さんと葵さん夫妻は、昔ながらの活版印刷技術で、見たことのないような作品世界を生み出し続けています。すこし不思議でどこか懐かしい、そんな世界を覗いてみませんか?
九ポ堂ならではの世界観が色濃く現れているのは、立ち上げ当初から増え続けている「架空商店街」シリーズ。
紫陽花の上でかたつむりが営業している「でんでん商店街」、眠れない夜に開店するお店「ツキアカリ商店街」、妖怪やおばけが店主の「ゾクリ町商店街」、その名の通り雲の上にある「雲乃上商店街」、今度は海にもぐって「七色珊瑚町商店街」。
それぞれのお店のダイレクトメールを思わせるデザインのポストカードは、眺めるだけで想像力が掻き立てられます。もしも好きな街やお店を見つけたら、思わず仲の良い友達を誘って訪れてみたくなるはず。
「お手紙と一緒に届けられる読み物」シリーズも、九ポ堂らしい作品のひとつ。
架空の団体「流れ星コレクター協会」の広告絵ハガキをイメージしたポストカードは、7月9日の流星狩りの夕べ、10月21日のオリオン流星祭、12月14日のふたご座星の冬花火、流星群が極大になる12月23日のこぐま座星降祭など、現実の日付が妙にリアルで、手紙や小包などに同封されていたらドキッとしてしまいそう。
紙とインクと活版印刷機を使って、めくるめく空想世界を広げている九ポ堂。
その創作の源泉は、いったいどこにあるのでしょうか?
「作品づくりでは、自分が着想した原案をもとに、2人で額を突き合わせながら世界観をふくらませています。それぞれの名前や物語のタイトルから、自分が作りたいものに手を挙げて、制作担当を振り分けているんです」
そう話すのは、乗り物や手書き文字、文字組みやダジャレ担当の酒井草平さん。
「子どもの頃、活版印刷は見たこともありませんでしたが、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の冒頭でジョバンニが働いている活版印刷工房の様子を読んで、いったいどんな印刷機なのだろうと想像をふくらませていました。今、活版印刷で作品を作っていることがなんだか不思議です」
そう話すのは、イラストなどを中心に手がけている酒井葵さんです。
2人にとって活版印刷とは、物語の一片を描き出す手段のひとつ。
現代には早くて綺麗な印刷技術がたくさんあります。そんな中で、見たり触れたりすることで伝わってくる、手しごとの味わいや物語を感じられるのが、昔ながらの活版印刷の良さなのかもしれません。九ポ堂は、活版印刷の奥深い魅力を見出していきながら、自分たちにしかできない創作を目一杯楽しみ続けています。
9ポイントの活字は、昔から小説等の本文によく使われていた文字の大きさでもあります。九ポ堂の作品に触れたときの感覚は、好きな本を開くときのワクワク感にも似ているような気がしますね。
本や活字に魅了されていた酒井草平さんのおじいさん、酒井勝郎さんは、自身の旅行記の印刷や、親戚がかつて出版していた料理本などを活版印刷で“復刻”させました。その本への思いを受け継いだ九ポ堂でも、夏目漱石が最後に目を通した校正原稿版「我輩は猫である」の“仮綴じ本”を復刻させています。
夏目漱石はかつて千円札の肖像にも使われており、格式高い文豪のイメージを持つ人も多いかもしれません。けれども、現在では度重なる校正によって消えてしまいつつありますが、江戸の大衆文化に親しんでいた漱石の作品には当時の庶民の話し言葉が色濃く現れており、実は近代文学というより大衆文学に近いものだったといいます。
「大衆文学としての夏目漱石を後世にも残したい」。そんな思いが込められている復刻本は、ハードカバーのない“仮綴じ本”の状態なので、製本家に“製本”してもらえば自分だけのオリジナル装丁本の完成です。
絵や文章を眺めてワクワクするうち、いつの間にかその奥深さに魅了されてしまう「九ポ堂」と活版印刷の世界。紙の手触り、インクのにおいを感じながら、あなただけの物語の1ページを開いてみませんか?
記事は取材当時のものです。